スタッフルームから

学歴を見るもう一つの視点

〜相互主観論(授業の雑談から)

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 芸術論の一派に,「相互主観論」というのがあります。これは,簡単に言えば,芸術の価値といったようなとらえどころのないものを論ずる際に,

真実は人々の主観の中にある

と想定することです。対象化して客観的に論ずるのはむしろ人々から芸術を剥奪し,人間精神の疎外を招くことになる,というのです。

 これだけではわけがわからないかもしれませんので,これを学歴に応用して考えてみます。

 大学の評価を考えるときに,偏差値,教授陣,就職実績,国家試験合格実績などを総合的に考察しようというのはいわゆる「客観主義」ですね。ところが学歴としての「全体的評価」は,いくら外的・周辺的なデータを総合しても見えてこないのも事実です。なぜなら学歴像は,人々の主観に負うところが大きいからです。

 さて,そこで,一見頼りない話ですが,学歴を論ずる際に,まず人間の「主観」を考えてみましょう。そこには,次のような「欲求」や「情念」が見えるはずです。

(1) 物事(大学)を分類して無理矢理にでも整理しておかないと不安

(2) 社会における自己の位置(=ステータス)がわからないと次の行動の指針が立たない

(3) 便宜的に上下関係(発言権の順位)を決めて,面倒な議論をせずに物事を円滑に運びたい

(4) 下位の者を差別し,攻撃本能を満たすと同時に,上位の者に対しては媚びて利用したい

 これらの項目はいずれも,何ら客観的な証拠を有するものではありません。だから,「攻撃本能だって?そんなのどこに証拠があるんだ」と言われればそれまでです。個人によっても(1)〜(4)の強さは全然異なるでしょう。が,これらは程度の差こそあれ,虚心坦懐に考えれば(客観主義をひとまず捨てれば)多くの人がそれなりに「納得」「了解」できることではないでしょうか。

 このようにして「自己の内側からそれなりに納得」していくのが相互主観主義です。そして,曖昧であることを承知の上であえて主観を突き詰めていくことによって,逆説的ではありますが,客観主義よりもはるかに生き生きとした学歴像や,他人の心理,社会的現実の理解に達することができるのです。

 さて,こんなことをして得た「主観に基づく学歴像」が役に立つでしょうか。いかにも客観主義にくらべて頼りない気がします。ところが,これが大いに役立つのですね。たとえば学歴社会の問題が論じられるときに,客観主義では,偏差値と仕事の評価の相関性とか,利権の弊害とか,それなりに大切なことも出てきますが,同時に「差別感情」「安定化へ欲求」「不平等感」「努力の程度」といった主観的かつ根元的なものが切り捨てられる危険があります。

 東大出の奴は出世してズルい,というとき,どれだけの人が,東大合格に係る努力の程度を知って議論しているでしょうか。ここはぜひとも主観的でいいから,東大出の人間について,彼らの受験の動機,欲求の種類と程度,といったことについて想像を働かせる必要があります。学歴論議には客観データでは全く掬うことのできない要素があまりにも多いのですね。

 また,いわゆる学歴偏重主義は,「安定を求める個人の欲求の総和」だと見ることもできます。若年齢のうちに人間を序列化することで社会に出てからの他人との競争を緩和し,余ったパワーをチームワークの向上や専門的な職務内容へ向けようとする……そういう「社会としての意志」がここに働いていると見るわけです。もちろん,競争のないところに必ず腐敗は忍び寄るもので,これも,「安定を求めた怠惰の代償」と見ることができます。金融護送船団がこれに当たりますね。

 このように,相互主観主義に拠れば社会を「意志を持った人格」として論ずることもできるわけです。このような方法論は,「文学的手法」といってもいいかもしれません。

 そして,主観主義の特質として,「銀行のモラル」とか「政治理念」といった一見曖昧なものも当然俎上に乗ることになるのです。

 実は,主観を主観のままに論じようとするのは「哲学的思考」の第一歩です。キルケゴールも,ウィトゲンシュタインも,結局のところその本質は「証拠」ではなくてむしろ「説得力」と「了解」「概念の共有」によって理解する以外にないわけですから。もちろん,主観を押し通して恣意的な議論をすることは避けねばなりません。「了解」あってこその主観です。自分の内面と,他人の言……内と外の両方に向かって強力に触手を伸ばしていく緊張状態こそが主観主義に課せられた使命です

 ちなみに,大学入試の国語で問われるのは,このように他人(=筆者)の言に虚心坦懐に耳を傾け,ひとまず「概念を共有」する力です。そして論述入試ではその抽象概念を自分の言葉で説明することが要求されます。「わかっている」ということを採点者に知らしめるには,気の利いた,的確な別の表現に置き換える以外にないからです。この辺は日常会話でも同じですね。自分がわかっているということを相手に伝えるとき,よく独自の言い方で言い直しますよね。国語の勉強においては,文中の言葉尻にこだわり,抜き出しや並べ替えだけで対処しようとする「客観主義」「技術至上主義」がいかに不毛なものかがわかります。


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